マイケル・ジャクソンの音楽は世界中に影響を与えた

この記事はMichael Jackson's music had impact around the globeというネット記事の和訳です。
2009年7月、マイケルが亡くなって間もない時期に公開されました。
欧米とは文化的、政治的に大きく異なる「ブラジル、南アフリカ共和国、中国、インド、日本」の5つの国で、マイケルがどのように影響力を持ったが語られています。
彼が活躍した1970年代から2000年代まで、それぞれの場所で懸命に生きる人々の心に、マイケルはどう関わったのか?
全ての地点で共通するテーマは「マイケルが持つ、売り上げの数字以上のパワー」です。

ニューヨーク(ビルボード)ーマイケルジャクソンは、インディアナ州ゲイリーの最も才能豊かな子供から、この惑星で最も認知されている人間の1人になった。
彼のアルバムの売り上げは驚異的であるが、それだけが彼の名声の要因ではない。彼の優位性は店のレジにおさまらないー彼はダンスの動きに影響を与え、ファッションの流行を先導し、世界中で社会的正義に対する意識を高めた。
このポップスターの死に対する世界各地の反応と、彼の回想を以下にまとめる。

ブラジル


donamarta

マイケルの死から一日も経たずして、ブラジル、リオ・デジャネイロの市長は、この歌手の像をドナ・マルタに設置すると発表した。


ドナ・マルタはかつてドラッグ取引場として悪名高いファベーラ(貧困街)であったが、現在では社会的発展のモデルとなっている。
1996年、"They Don't Care About Us"のビデオ撮影でジャクソンがこの地を訪れたことが、この変化を促進した要因のひとつだろう。
ジャクソンは、(アルバム)HIStory: Past, Present and Future, Book Iの 4 番目のシングル"They Don't Care About Us"のビデオを2種類撮影した。
1つは刑務所で、もう1つはドナ・マルタと、バイア州のサルバドールで撮影された。サルバドールはアフリカ系ブラジル人の文化と音楽で知られる植民地都市である。

ジャクソンがスパイク・リー監督のビデオを撮影するためブラジルに来た時、リオ・デジャネイロの地方自治体は、この歌手によって貧しい街の光景があからさまに露呈してしまうことを心配した。
当時、世界中の人々と同様、ブラジル人はジャクソンをアイドルとして見ていた。彼はそれまで、ブラジルを2度訪れていた。1度目は1970年代にジャクソン5のメンバーとして、2度目は1993年、1回につき10万人を動員した、サン・パウロの2回のコンサートで。
コンサートの主催者ドディ・スィリーナは、遊園地の貸切を要求し、最も貧しい公立学校の子供たちを招待した、ある「繊細な」アーティストを回想する。
「彼はこの国の全てに対して大きな関心を示しました。貧困、ストリートチルドレンについて。」スィリーナは語る。
以上の経緯から、マイケルがこの地をビデオの撮影地として選択したことは納得できる。
「これは、誰にも気にかけてもらえない人々に関するビデオだ」リオの観光局の調整係であるクラウディア・シルバはこう言う。

ジャクソンがリオでビデオを撮影した当時、シルバは日刊新聞"O Globo"の記者だった。
ドナ・マルタのドラッグディーラーが注目を浴びたがらなかったので、(監督の)リーと彼のスタッフは、撮影地をジャーナリスト立ち入り禁止にした。
しかしシルバは、彼女を自宅に泊まらせてくれる家族を見つけて、そのファベーラの住民がジャクソンの到着に備えるため、通りを洗っている様子を見た。
「住民たちはとても誇らしげだった」シルバは言う。「それが私にとって一番良かったこと。住民たちが撮影地を掃除するために早起きして、マイケルのために準備して、ゴミを取り除いたのよ。」

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ジャクソンはヘリコプターでやって来たが、人々と握手をし、キャンディーを配りながらドナ・マルタの道を歩いた。
「住民たちは結局、とても驚いたのよ。なぜなら、(マイケルが)人間離れした人だと思っていたから。」シルバは言った。
「そして彼は、こういうのも変だけど、普通の人だった。」

ジャクソンはサルバドールでも、アフリカ系ブラジル人の音楽グループOlodumと共に大勢の人と撮影した。
ビデオでは、マイケルは大勢のOlodumのドラム奏者のビートに乗って踊り、歓声をあげながら彼に触れようと手を伸ばすファンも一緒にいる。ついには警備員を突破してマイケルを押し倒すファンもいた。


「ドナ・マルタを改善するこのプロセスはマイケル・ジャクソンから始まった。」シルバは述べる。
「いま、ここは安全なファベーラよ。ドラッグディーラーはもういない。大規模な社会事業が行われている。でも、全ての注目はマイケル・ジャクソンから始まった。」
ーレイラ・コボ著

南アフリカ共和国

「タウン・シップ(黒人居住区)で育った黒人の幼い子供たちの将来の夢は、自由のために戦う活動家か、マイケル・ジャクソンになることだった。それくらい単純だったんだ。」
南アフリカのR&BアーティストLoyiso Balaはこのように回想する。
南アフリカ・ミュージック・アワードを5回受賞したことが、彼がキング・オブ・ポップに追随することを選んだ事実を証明している。

この29歳は、ジャクソンが(注目を浴びているミュージシャンの兄弟、ZawaiとPheloを含む)彼の家族に与えた影響をかつての大統領ネルソン・マンデラになぞらえる。
「マイケル(もしくはマンデラ)が出てくると、一家全員、いつでも自分達のやっていることを中断して、彼らを見て、とりこになっていたものだ。」彼はオイテンハークの東ケープタウンの外れに位置するKwa-Nobuhle黒人居住区での生活について語った。

(ハグを交わすネルソン・マンデラとマイケル)

南アフリカ最大の全国区都市民放ラジオ局である「メトロFM」のDJ、Lupi Ngcaysaは「ジャクソンの豊かな歌詞が、黒人系ラジオの様相を変えた」と言う。
「彼は黒人の家族に個人主義や人種に関する問題について議論するよう呼びかけた。ここでの彼の文化的な影響力は、単なる音楽を超えて広がった」と語った。

その影響力が最も明るみになったのは、1997年の5日間にわたるHIStoryツアー南アフリカ公演だ。
10月15日、ダーバンにあるキングス・パーク・スタジアムで終演したこのツアーは、マイケルにとって最後のスタジオアルバムを引っさげたフルスケールコンサートだった。
コンサートの主催「Cape Town-based Big Conserts」のCEOであるAttie Van Wykによると、23万人を魅了したこの公演は、いまだに南アフリカ共和国で史上最大のショーだ。

同時に特記すべきは、アパルトヘイト撤廃後の民主主義体制が発足してからたった3年後のこの国での、観客の多様性だ。
「黒人と白人、老いも若きも、マイケルは大勢の多種多様な観客層を引きつけた。このような公演は今でもめずらしい。」ツアーの広報係、ペニー・ステインはこう述べる。

アパルトヘイト時代にジャクソンの作品を取り扱っていた、ソニー・ミュージック・エンターテイメント南アフリカの戦略的マーケティング部長、ダンカン・ギボンによると、ジャクソンは南アフリカ共和国で200万枚以上アルバムを売り上げた。
さらに重要なのは、ジャクソンの音楽が、深く分断した社会を統一する鍵だったことだと彼は言う。

「1994年以前は、南アフリカのラジオは人種的に明白に分割されていた。」彼は言う。
「しかし、マイケルは白人ポップ放送局でも、黒人R&B放送局でも楽曲が放送されるアーティストであることを証明した。今となっては大したことではないが、アパルトヘイトがいかに黒人と白人の社会の全てを切り離そうとしていたかを思い返すと、これはとても強力なことだった。」
ーDiane Coetzer著

中国

アメリカに関するもの全てを非難してから30年後の1979年初頭、北京はワシントンD.C.との外交を復旧した。
これはジャクソンが"Off The Wall"を発表した年でもある。当時、ほとんどの中国人はまだくすんだ青色のマオスーツを身にまとっており、国の支配下にあるラジオは西洋のポップ音楽をほとんど排除した。
そしてレコード会社からの供給は少なかった。しかしジャクソンの音楽はすぐに定着した—それには報復が伴った。
北京に拠点を置くミュージシャン、Kaiser Kuoは、国の情勢が不安定であった1989年の春に、人生で唯一身体的に脅威を感じる出来事を経験した。それはジャクソンの人気の間接的な影響によるものだった。

1989年6月3日、民主主義を支持する学生たちが天安門広場で政府と激しいこう着状態になったまさにその時、Kuoのヘビーロックバンド「唐朝楽隊 」は吉林省で公演していた。
彼らは知らない間に「マイケルジャクソンのバックアップバンド」と宣伝されていた。
だまされていたと知った観客たちは、「怒り狂ってチケット売り場を焼き払った」とKuoは言う。「ジャクソンはそれだけ人気だったんだ。」

ジャクソンの回想は、多くの中国人にとって、あの「打ち砕かれた希望の時代」の記憶を掘り起こすことを意味する。
アメリカで中国外交官をしていた父親をもつブロガーのHong Huangは、1970年代から80年代まで、幼少期の多くをアメリカで過ごした。
「その頃、マイケルジャクソンの音楽を聞く中国人なんていないと思った」と彼女は言う。
しかし、深夜のテレビトークショー「Strait Talk」で、彼女はジャクソンの死について3回司会をした時には、中国のインターネット上で彼の人生や音楽についての議論が活発に行われた。
最大のビデオ共有サイトYouku.comには、中国の若者たちが黒いローファー、白い靴下、裾の短いパンツに身を包んでジャクソンの音楽に合わせてムーンウォークする動画がたくさん投稿された。

ソニーミュージックエンターテイメント・グレーターチャイナの社長であるAdam Tsueiは、海賊版が横行しているにもかかわらず、ジャクソンの作品はアジアで多く売れてきたと言う。
ソニーによると、ジャクソンのアルバムは1994年から香港と台湾で120万枚売れた。
ジャクソンは一度も中国大陸部を訪れたことがなく、彼の作品全体の公表が検閲によって阻止されているにも関わらず、ソニーによると2002年以来30万枚のアルバムが売れた。

売り切れのロンドン公演終了後、AEGライブはジャクソンに中国で公演させる計画を立てていたという未確認の情報がささやかれていた。
それが実現しなかった代わりに、地元のジャクソンファンクラブ運営を手伝っている倉庫管理者のJin Hailangは、ジャクソンの誕生日、8月29日に150人のファンクラブ正会員がパーティーを開く予定だと明かした。
「彼の音楽はとても重要だ。なぜなら愛についての音楽だからだ」彼は言う。「それに、自由に踊ろうという気持ちにさせてくれる」
-ジョナサン・ランドレス著

補足 「マイケルは中国大陸部を訪れたことがない」という記載は誤りで、実際は一度だけ中国の農村を訪れています。 Lahさんの下記投稿をご参照ください。

インド

国外ジャンルの音楽の売り上げが、全体の5%しかない市場であるインドでは、多くの人々にとってマイケル・ジャクソンは西洋のポップ音楽だ。

英語を話す都会のインド人以外にも人気のある西洋のアーティストは、マイケルだけだ。
インドの地方の若者たちの間で、彼の名声はボリウッドスターに劣らない。その理由はただひとつ、彼のトレードマークであるダンスだ。

「ダンスが上手な人はみなマイケル・ジャクソンと比較される」13000人の会員を持つインドの公式ジャクソンファンクラブを創立したNikhil Gangavoneは言う。
「マイケルがインドの上流階級から大衆まで知られているのは、ムーンウォークのおかげだ。」

ボリウッドがジャクソンのダンスやスタイルを取り入れたことで、インドにもファンが増えた。
「俳優、定評のある振付師、意欲的な作曲家、ダンスショーの子供たちーみんながアイデアを取り入れた」イギリス生まれのヒップホップスターで、現在はボリウッドスターのHard Kaurはこう言う。

Javed JaffreyからHrithik Roshanまで、インドの俳優たちはジャクソンのダンスから影響を受けたと話す。
そして南インドの映画業界の人々は、今でもジャクソン風のルーティーンを用いる。
これは超高速の動きから「インドのマイケル・ジャクソン」といて知られる振付師のPrabhu Devaや、ダンサーたちの影響によるものだ。

ジャクソンのレコード音楽の売り上げもまた、著しい。ソニーミュージックエンターテイメント・インドの副所長、Arjun Sankaliによると、スリラー25周年記念版は15000枚売れた。
かつてのCBSインド(インドのタタ・グループとCBSアメリカの共同事業)南区域支部長であるSurech Thomasによると、スリラーのオリジナル版の売り上げは10万枚を超える。

地域の言語に翻訳された歌詞カード付きの"Bad"は20万枚売り上げた。
上記の売上数には、これまで何百万枚も売れた海賊版は全く含まれていない。

ジャクソンはインドで公演した1度のショーで、この亜大陸での人気を証明したー1996年11月1日、ムンバイのアンデリ・スポーツ・コンプレックスで。
7万席が売り切れたこの公演は、シヴ・セーナー政党の代表であるラージ・タークレーによって、マハラシュトラ州の若者に雇用を提供するための資金を集める目的で企画され、若い投票者たちのあいだでこの政党の人気が高まる結果となった。

ジャクソンは10月30日にムンバイ空港に到着し、女優のソーナーリー・ベンドレーに迎えられた。
彼女はマイケルの額に、ヒンドゥーの伝統的な「ティラカ」印をつけた。

(ムンバイ空港到着時の様子)

自動車の列が彼をコンサートまでエスコートし、ジャクソンは途中で何度か車を降りて、空港とホテルのロビーの間の道に列をなす大勢のファンに手を振った。

ファンたちは今でも覚えている。「インドのどの村に行っても、どの地方にいっても、誰もがマイケルジャクソンという名前をよく知っていると分かる」
Hard Kaur(ボリウッドスター)はこう言う。「MJの代わりになれるミュージシャンはいない。」
ーAhir Bhairab Borthakur著

日本

マイケルジャクソンの死を伝えるニュースは日本の社会に動揺をもたらし、3人の官僚が彼の死に対してコメントするという例外的な事態が生じた。

10代から50代ぐらいまでのファンがー多くはジャクソンのトレードマークの衣装を着てー6月27日に東京の代々木公園で急きょ開催されたキャンドルライト追悼イベントでパフォーマンスした。
ダンスを披露したり歌を歌ったりする人もいるなか、公然と涙を流したり、間に合わせの祭壇の前で祈る人もいた。
「おもしろいことだ」ある参加者は言った。「(ニューヨーク、ハーレムの)アポロシアターの集会は彼の生涯を祝福するようなものだったが、日本人は一直線に喪に服している。」

ジャクソンは、後にも先にも日本人を魅了してきた数少ない西洋のスターの1人だ。
Off The Wallの発表時から有名であったが、1987年に東京ドーム(※当時は後楽園球場)でBadワールドツアーをスタートさせてから、彼の人気はさらに高まった。
彼は14公演を売り切り、45万人のファンを動員し、推定50億円(5200万ドル)を獲得した。東京、成田空港の彼の到着を、大勢の女の子が叫びながら出迎えた。
1000人のジャーナリストがこれを報道し、300人のジャーナリストが別のフライトで到着したジャクソンのチンパンジー、バブルスについて報道した。

「日本でマイケルジャクソンのようなスターパワーを持つパフォーマーは他にいない」ソニー・ミュージックジャパンインターナショナルの上級副社長、目黒アーチーはこう述べる。「彼はその才能、音楽、ダンス、穏やかな人間性によって、非常に愛されている。」
ソニーの報告によると、日本のジャクソンのアルバム売り上げは少なくとも通算490万枚で、最も売れた海外アーティストの1人だ。
「スリラー」だけでも250万枚売れた。しかし、彼の影響力はその売上より大きい。1987年、彼のツアーが、J ポップの振り付けを変えるきっかけになった。パフォーマーたちは彼の動きを取り入れたのだ。

ジャクソンの作品の売り上げは急増し、6枚のアルバムがサウンドスキャン・ジャパンのトップ200入りした。6月27日の朝までには、渋谷にある7階建てのタワーレコード主要店舗で、彼のアルバムとDVDが3箇所にわたり展示された。(※マイケルの死が日本で正式に報道されたのは6月26日の朝)
ジャクソンは1996年、当時のタワーレコード・ジャパン代表のキース・カフーンが主催したこの店のイベントに参加していた。
「このイベントに来たファンクラブの会員たちは、ほとんどが若い女の子で、とても大きく高い声で"マイケル!"と叫んでいた」彼はこう振り返る。
「そしてマイケルは同じぐらい高いが、柔らかい声でそれに応えた。」

(参照: イベント当時の様子)

「マイケルはビートルズ以来、日本人にもっとも大きな影響を与えたエンターテイメントだ」ソニー・ミュージックパブリッシングの代表、大竹健はこう述べる。
「彼は類いまれで卓越したアーティストとして日本人の心にいつも残り続けるだろう。」
ーロブ・シュワルツ著